|2025年03月01日|
金亀会報第46号第8面「デジタル史料館より」で紹介された長編詩『公孫樹下より』を公開いたします。
昨年、令和六年(二〇二四年)十月に、「中村吉治」と記された墨書原稿が多数入った木箱が、母校に寄せられました。
史料館所蔵の手書きの『同窓会名簿』には、「彦中三十一回卒業生」(大正八年一九一九年三月卒)の箇所に、中村吉治、神埼郡五峰村林と住所が記載され、進学先は慶應義塾、さらに別の手で、「昭和二十年五月五日、ビルマにて戦死」と、添え書きされていました。四十三歳での戦死だったと思われます。
この木箱中には、未使用の「彦根中學校校友会原稿用紙」がありました。これは、母校には残されていませんでした。「繖同窓会」の原稿用紙もありました。
さらに複数の墨書原稿は、氏の生家と東京との深い関わりを示しており、『能登川町史』(昭和五十一年一九七六年刊行)には、東京日本橋にて綿布を商っていたことが、記されています。
さらに『同窓会名簿』に記載された彦中三十一回卒業生の中に、洋画家であり歌人でもあった「野口謙藏」氏を見つけることができます。
野口氏の経歴は、昭和二十三年に刊行された『遺歌集 凍雪 野口謙蔵』に詳しく記載されており、蒲生郡桜川村字綺田の、山梨県にて酒造業を営む素封家に生まれ、中學校入学と同時に金澤金助教諭宅に下宿された、と記されています。大正六年(一九一七年)十一月に母校を大本営とし、大正天皇の「御座所」も設けられた、陸軍特別大演習時に、天覧品として陳列された学業成績品の中で「御持孵りの御沙汰」があった作品の中に当時四年生であった野口氏の絵画があったことは、よく知られています(『彦根東高百二十年史)
中村氏が下宿されたか、どうかは、不明ですが、
以下に紹介する『公孫樹下より』と題された長編詩から、校内に設置されていた寄宿舎に入っておられたのでは、と推測できます。寄宿舎は、現在の御座所とテニスコートの辺りにありました。明治二十二年(一八八九年)に、母校創設の地である五番町より移築され、以後二度の改築を経て、昭和七年(一九三二年)に閉寮、廃止されています。
中村氏と野口氏のお顔は、同じ彦中三十一回卒の音瀬卯平氏所蔵で、現在史料館にて保管中のアルバムにより確認することができました。
母校の現在の校歌(昭和二十八年制定)には、シンボル樹であった「大銀杏」が詠み込まれています。作詞者は、東京農大教授を辞し、母校の理科講師となった彦中二十九回卒(大正六年一九一七年)の吉田精一氏。作曲者は、その友人であった古関裕而氏であることは、周知のことだと思います。吉田精一氏は、『彦根東高新聞』第二六号において、新しい校歌は「僕達と縁の深い銀杏を主題としたものである。」と、新聞部員の取材に応じて語っています
帝国大学理科大学の助手時代に「銀杏の精子」を発見された平瀬作五郎先生は、明治三十年(一八九七年)から三十七年(一九〇四年)まで母校(教諭心得として着任時は、滋賀県尋常中學校、明治三十四年に滋賀県県立第一中学校と改称)において、教科「博物」と「図画」を担当しておられました。先生が母校に、何故、赴任されたかは、現在も不明のようです(末松四郎・末松修『いちょう物語』金亀会・昭和四六年一九七一年、本間健彦『イチョウ精子発見の検証 平瀬作五郎の生涯』新泉社二〇〇四年)。
平瀬先生が、「図画」の授業で用いられた教科書は、先生が執筆された、『中等教育 用器畫法透視畫法之部』(成美堂書店明治二十八年訂正再版)および『中等教育 用器畫法解説 透視畫法之部』(東京成美堂明治三十二年第五版)でした。この二冊の教科書は、平瀬先生の教えを受けた彦中十五回卒(明治三六年一九〇三年)の柴田善作氏から母校に寄贈され、史料館にて保存しています。
その先生が第二回学士院恩賜賞を受賞されたのは、明治四十五年(一九一二年)のことです。母校在職中、グランドの銀杏樹を、「先生は見ようとしなかった。」との、当時の生徒の回想は、ありますが、母校において祝賀会が催され、その記念写真も残されています。このことを契機に、生徒の銀杏樹への思いも、より深まったのでは、と思われます。
そうした思いを、「繖同窓会」原稿用紙に記された中村吉治氏の長編詩、『公孫樹下より』を一読されることによって、想起して頂ければ、と思います。
嘗てはグランドの隅にそびえていた大公孫樹、大銀杏は、校舎改築により中庭に位置することになり、その工事の影響か、次第に樹勢を失い、昭和四十五年(一九七〇年)に枯死、翌年に伐採されました。しかし、大銀杏を懐かしむ声は多く、昭和四八年(一九七三年)、同窓生により記念碑が建てられ、同じ地に、親樹の実から芽を出した二世樹が植樹されたのは、昭和五〇年(一九七五年)のことです。今、二世樹は、親樹のように大きく育ちつつあります(『彦根東高百二十年史』。